音声ガイド
ようこそ、自由学園明日館へ。
1921年創立のこの建物は、フランク・ロイド・ライトと遠藤新が手がけた貴重な建築です。光と影が織りなす空間美や、細やかな意匠を音声ガイドとともにご堪能ください。
館内では音量にご配慮いただき、周囲のお客様へのご迷惑にならないようご協力をお願いいたします。また、ご来館日にご覧いただけないお部屋も、ガイドを通じてぜひお楽しみください。
自由学園明日館
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自由学園明日館は、1921年(大正10年)、自由学園という女学校の校舎として、アメリカが生んだ近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトとその弟子である遠藤新の設計により建設されました。自由学園を創立したのは羽仁もと子、羽仁吉一で、校舎建築に際し当時通っていた教会の友人であった若き建築家の遠藤に相談すると、彼は帝国ホテルの建築現場でライトの助手を勤めていたこともあり、自分の先生であるライトを紹介しました。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希い(ねがい)を基調とし、自由学園を設計しました。
建物は、同時期の建築「旧帝国ホテル」と同様に、中央にホール、食堂を置き、教室を左右対象に配しています。軒高を低く抑え水平線を強調した立面、幾何学的な窓などの装飾は「プレーリーハウス」と呼ばれたライトの第一期黄金時代の作風をよく表しています。また屋内に入ると床の高さが異なる空間を連続させていて、これもライトの「有機的建築」と呼ばれる一連の作品の特徴です。
1934年(昭和9年)に自由学園が南沢(東久留米市)に移転してからは、明日館は卒業生の事業活動、などに利用されてきました。
しかし、建ててから約50年が経過した昭和40年代になると雨漏りや、壁の剥落、柱の傾きなど建物の老朽化が目立ち、「今にも崩れ落ちそう」という表現が大げさでもないような状況でした。「自由学園創立の校舎」、「日本に残る数少ないライト建築」であり、自由学園の卒業生、建築家の間から建物の保存を望む声が大きくなりました。自由学園でもこの建物、敷地を今後どのようにするのか検討を始めますが、建物の寿命ということに対する考え方、あるいは学校経営上の経済合理性、など考えると、土地の売却、建物の高層化などいろいろな考えが出ました。学校、保存運動の人たち、建築の専門家、行政、多くの人を巻き込んで、時には熱い議論を戦わせて、1997年(平成9年)に自由学園は文化財指定を受けて保存したいという事を決めました。同年5月に重要文化財の指定を受け、1999年(平成11年)3月から2001年(平成13年)9月まで保存修理工事が行われ、同年11月に再開業いたしました。その後見学はもちろん、結婚式、コンサート、各種教室、生涯学習の場など、文化財を使いながら保存するいわゆる「動態保存」の文化財として運営されています。
展示室
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羽仁夫妻と自由学園創立まで
自由学園の創立者・羽仁もと子は1873年(明治6年)青森県八戸市に生まれ、1957年(昭和32年)にその生涯を閉じました。幼い頃から不器用で、要領の良い性質ではありませんでしたが、その分努力家で、理解できるまで徹底的に考える子供でした。このことは後に、自由学園が全員で美術・音楽に取り組んだり、本質を突きつめて考える力を育てるなど、教育の特徴を生みだすことになりました。
1889年(明治22年)に上京。東京府立第一女子高等学校へ入学しますが、その後、目指していた女子高等師範学校の受験に失敗。当時、少女たちの人気雑誌であった『女学雑誌』の編集長、巌本善治が校長を勤める明治女学校へ入学しました。勉学の傍ら『女学雑誌』の校正を手伝い、雑誌作りの基礎を学びました。また、規則正しい寄宿舎での体験は、自由学園における生活重視の教育に反映されています。 1892年(明治25年)、もと子は郷里に戻り、小学校や女学校の教師となります。この頃結婚しましたが半年で離婚。一からやり直すつもりで再び上京し、報知新聞社に校正係として入社。持ち前の才覚から女性初の新聞記者となります。
この頃、羽仁吉一と社内結婚しました。吉一は山口県三田尻村(現防府市)に生まれ、漢学塾に学び、上京して報知新聞社に入社、政治記者として執筆していました。
1903年、二人は新婚生活の中から題材を得て、婦人誌『家庭之友』(『婦人之友』の前身)の編集、発行を開始、数年後、独立して婦人之友社を設立しました。雑誌を通じて、古いしきたりにとらわれていた女性たちに、自分の才覚で家を切り盛りする知恵と勇気を与えました。
「家庭を良くすることで社会を良くする」と訴えていた羽仁もと子と吉一は、知識の詰め込みに偏重した当時の女子教育に、次第に疑問を抱くようになります。1921年(大正10)、新しい教育を実現するためには、既存の教育を批判するのではなく、自らが学校を造るべきだと覚悟を固め、自由学園を創立します。毎日の昼食を自分たちで調理させるなど、生徒の創造的な生活と結びついた、全く新しい教育のあり方でした。
Rm. 1925
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この部屋では、文化財建造物の保存修理工事についていくつか説明します。
明日館の保存修理工事においては3つの原則を柱にして行なわれました。
第一の原則は、「文化財的価値の保存」と言う事があります。
たとえば、床材のように出来得る限り古い材料を再利用したり、天井、壁などにみられる漆喰塗のように当時の技法を踏襲したりなど、文化財価値を保存しています。
第二の原則は「建物の恒久性を高めるための構造補強」と言う事です。
文化財の大規模修理は概ね100年に1回という間隔で行われます。次の大規模修理までの100年間、構造的に建物が持つように、一部鉄骨などでの補強も行われています。また築80年を経過していたこの建物は、雨漏りなどもひどく、今回の修理工事では、雨水、湿度対策など、普段は見えないところを工夫し、建物の恒久性を確保しています。
第三の原則は「活用のための設備などの改善」です。
当時この部屋には一切の照明がなく、決して明るいとは言えない状況でした。このように大正時代の学校建築を、一般に開放して真夏、真冬、あるいは夜間も使用するには改善が必要でした。文化庁に現状変更の許可を得て、空調や照明、トイレの設備などの充実をはかっています。
この部屋の床材をご覧ください。奥から三分の二くらいまでが古い床材です。これはこの教室の床材で使えるものがこのくらい残ったのではなく、全教室から使えるものを集めてもこのくらいにしかならなかったという事です。そのくらい床材は傷んでいました。それは、この教室の床が地面と同じ高さだからです。お気づきになられましたか?元々ライトが住宅を作っていたシカゴ郊外など乾燥したところでは、これは段差もなくよかったのでしょうが、日本のように梅雨があり、夏の湿度も高いところには向かなかったようです。
また、北側の窓、変わった窓で私たちは「菱形の窓」と呼んでいますが、この窓は建築途中にかなり強引に追加で作られたことが修理工事の時にわかりました。壁の漆喰をはがしたところを見てもらうと、筋交いが途中で切断されて、この窓が取り付けられていることがわかります。やはり教室が暗くて、施主が強力にお願いして追加で付けたのだろうと言われています。
食堂
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全校生徒が集まり、手作りのあたたかい昼食をいただくことは、創立者の羽仁夫妻が願った教育の基本でした。そのため、当時の学校建築としては珍しく食堂が校舎の中心に設計されています。当初は部屋の左右に幾何学模様の大きなガラス窓があり、その外はテラスでした。しかし生徒が増えるに従って食堂に入りきれなくなり、ライトは帰国後であったので遠藤新が1923年(大正12年)頃、テラスに屋根をかけるなどして3か所の「小食堂」を増築しました。文化財修理の原則からすれば、後に改造されている部分はオリジナルデザインに戻すべきところですが、ここは改造されたままです。明日館の建物は1921年(大正10年)から建築がはじまり、最後に講堂が竣工したのは1927年(昭和2年)です。テラスがあった初期の頃の状態に戻すとなると、そのときはなかった講堂を取り壊すのか?という変な事にもなりかねないので、保存修理工事に際しては、講堂の竣工年1927年(昭和2年)を復元基準年としたので、増築後のままになっています。
食堂の電灯の吊り具もライトらしいデザインで、この食堂にとてもよく合っています。しかしライトは最初からこの照明を付ける予定ではなかったようです。食堂の設計段階での電気配線図によると配線は部屋の4隅にいっていました。しかし建設途中でライトが現場を見に来た時に天井が高く、間が抜けた空間ができてしまったと思い、翌日電灯の吊り具の設計図を弟子の遠藤に渡し、それを付けるように指示があったというエピソードが残っています。
東西の小食堂に置いてある古い長方形のテーブルと椅子は、この食堂で食事をするために作られたものです。当時の生徒が帝国ホテルで英語劇を開催し、そのチケットの売上金を資金にして、遠藤新に設計を依頼しました。限られた資金の中でも良い家具を作るためにと、当時安く手に入れることが出来た材木屋の規格材を組み合わせることで、製作費を抑えるという工夫がなされています。
現在は主に、中央の部屋に置いてある新しい正方形のテーブルと椅子を使用しています。保存修理工事の後、結婚式などで使うために、オリジナルを参考に現代の仕様に合った形のものを作りました。
ホール
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キリスト教精神に基づいた自由学園には、生徒が一同に集まり、聖書を読み賛美歌を歌う、礼拝の時間があります。生徒たちはこのラウンジホールで毎朝、礼拝していました。現在は結婚式、コンサート、公開講座などに使っています。
玄関からホール入り口付近にかけて、天井が低くおさえられています。この部屋に入った人は自然と、窓付近の広々と明るいエリアへの期待感を持つようになり、天井の高いところへ到ると、空間をより開放的に感じられるようになる、ライトお得意の手法です。
自由学園明日館を象徴する印象的な窓が、降り注ぐ光を紡いでいます。住宅作品で様々のステンドグラスを作ってきたライトですが、簡素さとローコストを求めたこの建物では、桟と羽目板のみによる装飾が採用されました。ライトはフリーハンドによる線を用いず、すべて幾何学的なデザインを貫いています。それはライトにとって最初の建築の師匠である、「フリーハンドの天才」と呼ばれた建築家ルイス・サリバンを超えたいという思いの表れとも言われています。修理工事前には、開閉の使い勝手などの要望から、デザインが変更され、窓全体が上下に分割され、小さい窓として使われていました。文化財修理工事の原則に従い、歴史的経緯が解るよう、窓枠にその「跡」を残した形で、竣工当時のオリジナルデザインに復原しています。
ホールの壁画は、1931年(昭和6年)、自由学園の10周年の記念に生徒たちが描いたものです。壁画の右側に当時描いている時の写真があります。題材となっている旧約聖書の出エジプト記の一節、「主は彼らに先だって進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」とい聖句が上の方にヘブライ語で描かれており、それが自由学園の校歌の一節にもなっています。この壁画は後に漆喰で塗りつぶされてしまいます。おそらく戦時中にキリスト教が題材になっていることが危惧されたのではと言われていますが、理由は定かではありません。壁であった年月が長いため、この絵の存在を知っている人は卒業生の中でもあまりいませんでした。保存修理工事の時に出てきたこの壁画を、当時の自由学園の学生たちが美術の先生の指導のもとに修復しました。
ホールと食堂には背中合わせに暖炉が作られています。ライトは暖炉とは暖を取るための手段のみならず、火のあるところに人は集まり、団らんし、安らぎの場を共有するのだ、と考えており、手がけた住宅の多くに、暖炉を作っています。ライトが帝国ホテルでも採用した大谷石は、日本でライトの代名詞的な素材です。そのざっくりとした質感を生かして、堅固に築かれた暖炉は、今回の修理工事でも一切、手を加える必要がありませんでした。 以来木造重要文化財のため館内で火の使用はできず、暖炉を使う機会はありませんでした。しかし近年は消防署の許可をとり、冬の夜間見学デーなどで、良く燃えて暖かい、ライトの愛した暖炉を楽しんでいただく機会を設けています。
Rm. 1921
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自由学園開校の日と現在の自由学園
自由学園が開校した1921年(大正10年)の4月15日、仕上げの漆喰が塗られていない荒壁のまま、窓ガラスもはめ込まれていない状態のこの部屋で入学式が行われました。この1室だけ、やっと足場丸太をはずすことが出来ていたのです。羽仁夫妻が遠藤新を介してライトに出合い、設計を依頼したのが1月の中旬、ライトが建設予定地に訪れたのが下旬。そして着工したのが3月15日でした。入学式翌週、すぐ隣の教室(現タリアセン)に着手し、翌年1922年(大正11年)6月に中央棟及び西教室棟が完成しました。同年7月22日にライトは帝国ホテル設計監督を解任されたため、アメリカへと帰国しました。それ以降、東教室棟建設は遠藤新が担当し、現在のような「コ」の字型になったのは1925年(大正14年)9月のことでした。
今は写真パネル、パンフレットなどで現在の東久留米市にある自由学園の様子などを展示し、自由学園PR室として使っています。自由学園は約3万坪の緑豊かなキャンパスで、幼児生活団(幼稚園)、初等部(小学校)、中等科、高等科は女子部と男子部に分かれ、大学に相当する最高学部までの一貫教育を行っています。女子部食堂、講堂、体操館、男子部体操館、初等部食堂、は1934年(昭和9年)に学校が移転した時に遠藤新が建てた建物です。何度も修理を重ね現在でも校舎として使っています。この5棟は東京都の歴史的建造物に選定されています。
講堂
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講堂は、1927年(昭和2年)に建築されました。
礼拝など生徒が集まる場所としてそれまではラウンジホールが使われていましたが、年々増加してきた生徒を収容するには困難になってきていました。そこで新たな人が集まれる場所が必要であると判断され、父母の寄付金によってこの講堂が建てられました。ライトが帰国後でもあったため、共同設計者である遠藤新によって設計されました。
魚の調理法になぞらえ「三枚おろし」と名づけられた講堂の構造は、屋根を小さくできることもあり、災害が少なく、経済性にもいいと設計者・遠藤が記しています。中央の平土間とすこし高くなった両桟敷、折戸を閉めると部屋にもなる客席後方の空間など、使い方はいろいろです。現在は、挙式会場、コンサートホール、講演会会場、ときにはファッションショーと様々な用途で利用されています。
JMショップ
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1934年、学校が郊外に移転した後明日館では卒業生による様々な活動が始まります。自由学園では美術教育が盛んだったため、美術工芸についてより深く学びたいと、日本国内はもとよりヨーロッパでも学び、自由学園工芸う研究所を作りました。
彼女たちが織った織物は当時のパリ万博にも出品されました。また、共同購入生協などの先がけとして消費組合が発足。戦後日用品や衣服が手に入りにくい時代には特にそのニーズが高まりました。
このような活動をはじめ、婦人之友社なども働く女性が多く、夕食調理を効率的にできるようにと、半調理品をまとめて作る食事研究グループが始まり、このグループが後にフランスから最新のお菓子作りのレシピなどを取り寄せ、お菓子作りの研究を始めました。今ではそれらの活動だけが残り、手作りクッキーは雑誌などでも紹介され、週の初めに入荷しても週末には売り切れるような人気の商品となっています。
各活動からうまれた商品の他に、フランク・ロイド・ライトのデザインによる製品、関連の書籍など、ミュージアムショップとしての一面もありますので、ぜひお立ち寄りください。