Since 1921
建築・歴史
建築|明日館
自由学園明日館は、1921年(大正10年4月15日)、羽仁もと子、吉一夫妻が創立した自由学園の校舎として、アメリカが生んだ巨匠フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました。
明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは遠藤新。帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせました。
夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」
という夫妻の希いを基調とし、自由学園を設計しました。
ホールの窓
前庭に臨むホールの大きな窓は、明日館の顔ともいえる部分です。ライトは限られた工費のなかでいかに空間を充実させるか、ということに尽力しました。それはこの窓一つにも明確に表れています。
ライトは建物全体の意匠を幾何学模様にまとめ、ホールの窓には高価なステンドグラスを使用する代わりに、木製の窓枠や桟を幾何学的に配して工費を低く抑え、かつユニークな空間構成を実現したのです。
ホールの六角椅子
ホールに置かれたこの椅子は、帝国ホテル2代目本館・通称ライト館で使用されていたピーコックチェアにも似た、六角形の背に水平のスリットが特徴的です。ライトもしくは遠藤がデザインしたと考えられます。
ライトは家具も建物の一部と考えていました。つまり円型の建物には円を基調としたデザインを、六角型の建物には六角形の家具というように、常に建物と家具との調和を考えていました。
ホールの壁画
保存修理工事で発見された大きな収穫の一つとして、明日館・ホールの壁画が挙げられます。壁画そのものの存在は以前から古い写真等で確認されていましたが、厚く塗られた壁の下に現在まで色鮮やかに残されていたのです。
この壁画は創立10周年を記念して選ばれた聖句、「見よ、火の柱、雲の柱・・・」という旧約聖書出エジプト記の一節がモチーフとなっています。当時、学園の美術教師を務めていた美術家・石井鶴三の指導のもと、生徒たちの手によって描かれました。


食堂
全校生徒が集まり手作りのあたたかい昼食をいただくことは、羽仁夫妻が願った教育の基本でした。そのため当時の学校建築としては珍しく食堂が校舎の中心に設計されています。
ライトが設計した時点では中央のメインフロアのみで、北、東、西の3つの小部屋は後に手狭になったため、遠藤新が1923~24年にかけて増築しました。
保存修理工事以前は食堂の真下に台所があり、当時はそこで当番の生徒が昼食を作っていました。出来上がった料理を手早く食堂に上げるため、簡易式のダムウェーターが設置されていました。
しかし、かえって手間がかかるので、階段に列を作りバケツリレーの要領で食堂まで上げていた、というエピソードも残っています。
修理工事以後は、新築された建物に厨房を移し、昔の台所部分は機械室や事務室等として利用しています。


Rm 1921
1921年4月、まだ荒壁が残り木部の塗装もされていなかったこの教室で、自由学園最初の入学式が行われました。羽仁夫妻がライトに設計を依頼したのが同年1月ですから、3ヶ月のスピード工事だったことが想像されます。
ライトは開校を祝し次のような言葉を寄せました。「その名の自由学園にふさわしく自由なる心こそ、この小さき校舎の意匠の基調であります。幸福なる子女の、簡素にしてしかも楽しき園。かざらず、真率(しんそつ)なる。(中略)生徒はいかにも、校舎に咲いた花にも見えます。木も花も本来一つ。そのように、校舎も生徒もまた一つに。」
入学式以後、授業と並行して建設工事が続けられ、約1年後に中央棟全体が完成しました。再開業後は1921年に完成した部屋という意味で『Rm 1921』と名づけられ、お食事会、会議、ミーティング等、様々な用途にご利用いただいております。


建築|講堂
敷地の南側に建つ講堂は遠藤新の設計で、昭和2年(1927)に完成しました。生徒数の増加により中央棟のホールでは手狭になったため、第5回本科卒業生の父母の提案により、当時、テニスコートとして使用していた場所を敷地にあてこの講堂が完成したのです。
平成元年(1989)9月より外庇や玄関、水切、建具の補修工事など、大規模な改修工事が行われたのち、平成9年(1997)5月に他の3棟とともに重要文化財に指定されました。
平成27年(2015)から平成29年(2017)に改めて耐震対策を含めた保存修理工事を行い、竣工当時へと復原されています。
歴史
施設名:自由学園明日館
住所:東京豊島区西池袋2丁目31-3
施主:羽仁もと子・吉一
設計:中央棟・東教室棟・西教室棟=F.L.ライト・遠藤新、講堂=遠藤新

明日館

講堂
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1921 自由学園の誕生
自由学園は、羽仁もと子・吉一夫妻により、大正10年(1921) に女学校として創立されました。
知識の詰込みではなく、自ら考え学ぶ力をつけることや、生活即教育をモットーとして、昼食の調理を始め学校生活の役割を生徒自身が担うという教育方針は、大正デモクラシー期の自由教育運動の中で代表的な存在となっています。
明日館はその自由学園誕生の校舎です。アメリカが生んだ建築の巨匠:フランク・ロイド・ライトと、その弟子の遠藤新の設計による建築です。 -
1922─1927 校舎の建設
羽仁夫妻は、友人の建築家 遠藤新を介して、当時帝国ホテル設計のために来日していたライトに校舎の設計を依頼しました。ライトは羽仁夫妻の教育理念に深く共感し、設計を快諾したと言われています。
大正11年(1922) に中央棟、西教室棟が竣工、大正14年(1925) には東教室棟が完成、昭和2年(1927) に講堂が完成し、その年に初等部も設立されました。 -
1934 自由学園移転後 「明日館」と命名
生徒数増加により、さらに広い土地を求めた自由学園は昭和9年(1934)、現在の東京都東久留米市に移転しました。
その後、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して命名した「明日館」は、卒業生の諸活動の拠点として使われてきました。幸いにも関東大震災や太平洋戦争の被害を免れ戦後は自由学園生活学校の校舎としても使われました。 -
1997─1999 動態保存モデルとして再出発
平成9年(1997)に国の重要文化財に指定され、国および都、区の補助事業による保存修理事業を行いました。
平成11年(1999)から平成13年9月(2001)に中央棟、東西教室棟の3棟を、また、平成27年1月(2015)から平成29年7月(2017)に講堂の保存修理(耐震対策)事業を行い、全4棟が竣工当時へと復原されています。
建物は使ってこそ維持保存ができると考え、明日館は使いながら文化財価値を保存する「動態保存」のモデルとして運営されています。
そのため、次の3項目を大きなテーマとして保存修理事業が行われました。
1. オリジナル復原(ホールの窓枠、屋根の銅板葺など)
2. 恒久性を高めるための工夫( 鉄骨による構造補強、雨漏り対策など)
3. 活用のための改善(冷暖房設備、照明設備、トイレなど) -
2001─ 明日館:保存・修理工事終了
保存・修理工事終了し、動態保存としての運営が始まる。
修理工事完了後は、クラス会やセミナー、コンサート、懇親会などにご利用頂ける各部屋の貸出に加え、TV-CM、雑誌の撮影など、さまざまな用途でご利用いただいております。 -
2017 講堂:保存修理・耐震対策終了
遠藤新・設計の講堂は、木造建築とは思えない大空間。この設計意図をしっかり引き継ぎながら、現在の基準に合致するよう耐震対策を施し、これからも演奏会や講演会、挙式の会場として、安心して使用していただける環境を整えました。
自由学園|100年+
これまでの100年を
これからの100年へ
自由学園の詳細な歴史年表に加え、生徒・学生、卒業生が編集に長く関わっている自由学園の定期刊行物・学園新聞、主に1950年代までの自由学園での生活の様子が分かる写真などがデジタルアーカイヴとしてご覧いただけます。




